日本の政治家ほど責任倫理がない人間はいない

ドットの主張に立つとこれまでみてきたようなアメリカ帝国論は崩れてしまう。「近代世界システム」(川北稔訳、岩波書店)をはじめとする著作で有名なイマヌエル・ウォーラ・ステインもドットと似たような主張をしている。

ウォーラ・ステインは「アメリカの弱さとヘゲモニーのための闘争」という論文でアメリカが最も強かったのは第二次世界大戦直後の1945年で、その後ヨーロッパが復興し、第三世界が反乱し、そして1968年の革命による反乱があり、それによってアメリカの支配力は弱まった。

それに対してアメリカは「ベルベットの手袋の中の鉄の腕」という融和政策で対処してきたがそれが失敗した。そこで出てきたのがネオコン=夕力派で、それはアメリカの弱さのあらわれだと言う。このような主張は彼の「アメリカ権力の衰退」で詳しく展開されている。はじめからアメリカ帝国は強大で万能であると前提して陰謀理論を作ると大変な誤りを犯すことになる。

まずなによりもアメリカの力がどのようなものであるかということを明らかにし、同時にそれがどのような矛盾を持っているかということを解明しなければならない。その上うな構造分析抜きの陰謀理論を唱えることは自分で誤りを犯すばかりか人びとの判断を誤らせるもとになる。

判断を誤って失敗したらその結果について責任をとらなければならない。これは人間の基本的道徳である。だから人間は判断を誤らないようにたえず努力する。

マックス・ウェーバーはドイツが第一次大戦に敗れた直後の1919年1月、ミュンヘンの自由学生同盟のために行なった「職業としての政治」という講演の中で心情倫理と責任倫理を区別し、責任倫理とは結果に対して責任を持つということであり、すべからく政治家はこの責任倫理を持だなければならないと説いた。(「職業としての政治」脇圭平訳、岩波文庫)

第二次大戦中、治安維持法違反で捕えられ、終戦直後に牢獄で死んだ哲学者の三木清は、このウェーバーの責任倫理について次のように書いている。ウェーペルウェーバーの責任倫理の観念は重要な意味を有し得るものである。

それは従来の倫理学において結果説といわれるものの新たな評価を可能にするであろう。すなわちそこでは行為の結果は単なる功利主義の立場を離れて責任という道徳の根本概念のもとに置かれる。そしてこれは自己の行為を社会的に理解することによって必然的となるのである。

我々は社会的存在であるゆえに我々の行為の結果に対して責任を負わねばならぬ。結果をおもんばかるということは個人的立場において必要とされるのでなく自己の行為の他の人びとに及ぼす影響を考える社会的立場において要求されるのである。

人間は社会的存在として社会に対して責任を負うている。しかるに行為の結果を問わない心情倫理は社会に対して無責任になりやすい。(三木清「哲学ノート」新潮文庫)そしてさらに「責任倫理が他に対する、社会に対する責任を問題にするのに反して心情倫理は自己に対する自己の良心に対する責任を重んずるという差異があるのである」と言う。

責任倫理が「他に対する、社会に対する責任を問題にする」のであれば、その判断による結果が社会に対して大きな影響を与えるのであるから、政治家は責任倫理を明確にさせなければならない。

ところが政治家、とりわけ日本の政治家ほど責任倫理がない人間はいないといってもよい。自衛隊をイラクに派遣するというのは小泉純一郎首相の判断によるものだが「国際社会の一員とてイラクの人民の安全を保護するため」に自衛隊を派遣する。

その結果、自衛隊員が現地で攻撃されて殺害されたらその責任は当然自衛隊の派遣を命令した防衛庁長官と首相がとらなければならない。テレビで見ているとイラク派遣が決まったことに対し自衛隊員は「命令されたらどこでも出かける」と言っていた。そうであるなら命令した者がその責任を負わなければならないのは当然だ。

— posted by チャパティー at 05:23 pm