御用学者の役割

自由であるはずの新聞やテレビの報道が権力の召使いになると、それによって大衆は情報操作され、簡単に戦争に賛成する。新聞記者やテレビ報道記者の判断力がそれによってゆがめられるし、かりに正しい判断力を持った記者がいてもそれは排除される。

日本の新聞記者が判断力を持たないため情報操作されるということの一例として先に大和銀行と住友銀行の合併報道を取り上げたが同時に新聞記者が権力志向でたえず権力に寄りそっていることがその判断力をにぶらせ、誤った報道をさせるようになる。

さらに小沢氏のいうように「御用学者」もまた権力の「御用聞き」になることで誤った判断をし、学生、そして一般市民にまで誤った判断を売りつけることになる。

「御用学者」もマスコミと同様にそれ自体で権力を持っているわけではなく「政・官・財の鉄の三角形」に使われることで権力の補強機関、あるいは宣伝機関になっているのである。

権力の手先になっているだけなのに政治家や財界人から「先生」といわれて持ち上げられると若い学者がいかにも権力者になったような錯覚をする。そこを利用して政府は首相直属の諮問会議や各省の審議会をはじめ、さまざまな委員会を作り、その委員に財界人と並んで学者を任名する。

小泉内閣になってからとりわけこのような政府による学者の登用=「御用学者」化の傾向が目立つようになった。小沢氏の指摘はそのことを突いたものといえる。

日本の場合、今まで経済学者というのは非常に特殊な「マル経対近経」という古色蒼然たる対立構造があった。その中で近代経済学者はマル経から「御用学者」と批判されるのを恐れて現実の場から極度に遠ざかろうとしていた時期があった。

しかし経済学という実践の学問の場でそういうのは非常なアナクロニズムといわざるをえない。これは竹中平蔵氏が小泉内閣の経済財政政策担当大臣になったあと行なったインタビューでの発言で「論座」(2001年10月号)に載ったものである。

「御用学者」という言葉は竹中氏が言うようにマルクス経済学者だけが言っている言葉ではない。マルクス経済学者の中にも戦後、吉田内閣などに協力して「御用学者」になった人もいたし、最近でもマルクス経済学から転向して「御用学者」になっている人もいる。

「広辞苑」によれば「御用学者」というのは「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」だとされているが、古来こういう「御用学者」はたくさんいた。

しかしいつのまにか「御用学者」という言葉が使われなくなり死語になっていた。それというのも「御用学者」があまりにも大勢になったのでもはや軽蔑の意味をこめたこの言葉を使う必要がなくなったということかもしれない。その死語をよみがえらせた小沢一郎氏の発言はそれだけに意味が大きい。

池尾愛子早稲田大学教授の「経済学者が前面に立つ時代」(論座 前掲号)によると経済学者が政府の審議会や委員会に参加するのが目立つようになったのは1994年ごろからで、そのころから経済財政諮問会議の委員、内閣府経済社会総合研究所長、内閣府官房審議官、財務省副財務官などのポストに経済学者が名前を連ねるようになった。

それ以前から各省の審議会の委員になったり付属研究所の所長になったりする学者がいたが、1990年代なかばからそれがとりわけ目立つようになったというわけである。

— posted by チャパティー at 06:03 pm